先週、5月2日、ドイツの国歌は還暦を迎えました。(だから赤くなったわけではありません、
1949年にドイツ基本法(憲法)が制定されたときに、ドイツの国旗が基本法第22条に「連邦旗は、黒・赤・金色である。」と制定されましたものの、国歌はありませんでした。
実は今使われている「Deutschlandlied」(ドイツの歌)は禁じられていました:
„Das Singen oder Spielen irgendwelcher militärischer oder nationalsozialistischer Lieder oder Musik oder deutscher oder nationalsozialistischer Nationalhymne durch Organisationen, Personengruppen oder Einzelpersonen in der Öffentlichkeit oder in Anwesenheit oder innerhalb einer Personengruppe oder Versammlung wird hiermit verboten und für gesetzwidrig erklärt.“
組織、人々の集団及び個人による軍歌及びナチス関連の歌又は音楽又はドイツ及びナチスの国歌の歌唱または演奏は公式な場または人々の集団の中又は前、または集会で禁止され、違反である。
1949年9月7日に連邦議会が最初に集まったときに、議員は「 Ich hab mich ergeben / Mit Herz und mit Hand」 (心も手もで、愛も生活豊かなドイツ母国に全身に尽くします。)と歌いました。
その後には第九の「歓喜の歌」も使われていました。
先代の大統領ホイス氏は新しい歌で、新しいドイツが生まれると信じて、新しい歌の作曲を依頼して、その歌、Land des Glaubens, deutsches Landという歌を提案しましたが、国民にウケませんでした。(本当にマイナーで、youtubeでリンクさえありません。)
外交にはもちろん国歌は必要でした。
ケルンで行われたドイツ対ベルギーのサッカー試合には当時人気の歌のWir sind die Eingeborenen von Trizonesienが流されました。「我々は三占領区域の原始人だよ。」と言うタイトルの歌で、1949年1月あたりとても流行っていた歌でした。三占領区域とは英米仏郡の事で、とても陽気な歌ではありますけれども、「人食いはしないけど、キスはその分は上手だよ」(Wir sind zwar keine Menschenfresser / doch wir küssen um so besser)というセリフがありますけれども、当然、国歌にはなれません。当時の政治と西ドイツ人の心境もよくわかるけれども、もちろん政治家は喜んでいませんでした。
首相ご本人がアメリカの表敬訪問でHeidewitzka, Herr Kapitän(ハイデヴィッツカ、キャプテン!)といういう人気歌で挨拶されました。(その時の反応はなんだったんだろう?)
1950年4月にアデナウアー首相は西ベルリンの集まりで「ドイツの歌」を歌おうとしたところに反感を買いました。社会民主党の幹部は怒って退場しました。連合国の代表はやはりあのメロディーを聞くと、ナチスの狂信的人種差別感、世界的強国になる欲情を思い出したでしょう。外国での反応もネガティブでした。英国もフランスの外務省は「非常識、無神経、悪趣味の極み」と批判していました。
なぜ、非常識化と言うと、ドイツの国歌は、国粋主義そのものです。第一章には「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ この世のすべてのものの上にある」と書いてあります。ドイツのあんな過去があるんですから、なぜこれを使ってはいけないのか解りますよね。
敗戦の45年からの数年には国民の中でも心配していた方がいました。その証拠にエッシャ氏という歴史研究者がドイツ連邦公文書館で国民が政府に寄せた1949-1952年の間に書かれていた手紙212通も見つけました。歌詞やメロディーについて様々なことを提案しました。国民からの手紙は普通は保管義務はそんなにないので、保管されているのは奇跡に近いです。多く、男性が寄せた手紙で、「ドイツの歌」のままが良いと主張しました。その一人は例えば、
「なぜ新しいメロディーをわざわざと考える?この歌ではドイツの国民は喜怒哀楽を共にしたため、この歌はドイツ民間伝承の宝の一つになった。ドイツの柏、「きよしこの夜」とともにドイツの国民の一つである。」
ただ、212人の中で、文章はこのままに使いたい人はいなかった。「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ この世のすべてのものの上にある」よりは、「自由よ、自由よ、すべてのものの上にあれ」ということも提案されました。一番よく提案された物は「ドイツよ、ドイツよ、わたしのすべてであれ」だったそうで、官僚が赤ペンで「またか」とつけた程でした。
1951年のアンケートで70割の西ドイツ人は同じ国歌がいいと主張していました。その支援者の三割はさらに「第三章のみ」と主張していましたが、相変わらずドイツの歌は禁じられていました。
1951年にアデナウアー首相が75歳の誕生日を迎え、ボンの市庁舎の前に第三章を歌い出したら、楽隊が音一つとも出さないようにしました。
1951年10月のキリスト教民主同盟の総会に、ホイス大統領に「ドイツの歌」の禁令を開場するように頼みました。
首相と大統領がいくつかの手紙を交わした結果、ホイス大統領も第三章を支援し、1952年5月2日にドイツの国歌が決まった。
50年代初期には国歌が学校にも導入されました。当然は意見が統一していませんして、いや、第三章のみなのか、それとも全章が国歌になったこと、それについて、38年間も法学者は喧嘩しました。
政府でさえ統一しませんでした。1955年にアデナウア首相が自分の75歳の誕生日に「ドイツの歌」の第一章を歌おうとしたところもまたスキャンダル。
論点なのは一章にあるドイツの賛美、それから、国境はマース川とメーメル川であると言う菓子です。
現時点でベルギー、ロシア、ポーランド、イタリアにある川ですので、
1990年3月になって、連邦憲法裁判所(ドイツ最高裁判所)は第三章のみが刑法上で守られていると判定しました。
しかし国歌はドイツ人になかなか受け入れなかった。最初はスポーツ選手権でほとんどの人が歌わなかった、また はうっかりして、禁じられた第一章が歌われてしまったと言う事もありました。
私は第三章の歌詞は歌えますけど、多くの人は歌えないかも知れません。
60周年の記念にドイツのテレビで町の人がインタビューされ、多くの人は歌えませんでした。
母が小学校の先生であって、一度私も参加した卒業式がありました。おそらく80年代前半だろう。校長先生は「ドイツの歌」を歌い出して、卒業に出席していたほとんどの先生、ほとんどの親と、ほとんどの子供は座ったままでいました。状況がよくわからないで、ママに聞いていたら、丁寧に文章と、過去の使い方には問題があるので、 ママは好きじゃないと説明されました。
(西ドイツの)国歌には「統一」という言葉も使われているので、ドイツが東西に分かれている時は国歌を歌わず、無言に聞いたサッカー選手も大勢いました。ドイツではほとんどの歌が吹き替え版しか出ませんが、ある映画には東ドイツの歌が流れるのですが、それは西ドイツに公開されている際に、なんと「オイゲン公の歌」が流れていました。
ドイツが統一して、一番記憶に残っているの当時のコール首相等がベルリンで「ドイツの歌」を歌いました。耳が痛くなるほど、音が合わなかった気がします。
統一当時には、それこそ、二つになった、強くなったドイツの国歌を変えようという動きも鮮明に覚えています。統一の際には東ドイツの国歌を採用する話もありましたけど、まああんな国だったから、採用には問題はありますよね。東ドイツの依頼作品の「廃墟からの復活」の歌詞はとても素敵と思いますけど・・・
一番気に入っている文章は、ブレヒトの文章であって、変なことに、今の国歌のメロディーにぴったり合っています。
他の良い国と同様に良いドイツが栄えるように、優美な姿勢で努力をして、情熱的に、思考力を使っていきましょう
(ドイツを見て)世界が泥棒でも見たように青ざめるのではなく、他の国と同様にドイツに手を伸ばすために努力しましょう
他の国の上にではなく、下にではない国でありたい。海からアルプスまで、オーダー側からライン川まで
この国を改善しているため、愛していて、守っていきます。他の国は自分の国を一番愛していると同様に、我々もこの国を愛しています
と、(翻訳はそれほどではないけど)きれいな文章でしょう?私はこの文章が好き♪ それなら歌ってもいい。