1989年11月9日からは、はやくもう22年経ちましたが、覚えていますか。日付ごとで覚えている人は少ないと思いますが、その日に、ベルリンの壁が倒れました。
私はその時にまだ中学生であって、11月に入って、ママが毎日テレビにくっついて泣いたりしていたことはあまり理解できませんでした。
私が子供の時に住んでいた国は「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)であって、つまり、隣の地図のみどりの部分です。
70年代から、叔母が飛び地のベルリンに住んでいましたから、何回も東西の国境(Grenzübergang Helmstedt-Marienborn)を渡って、東のアウトバーンで走って、西の領土であった西ベルリンに入らないといけませんでした。小学校低学年で、東ドイツの国境警備隊の隊員に指でパンパンとしてから、両親二人とも涙が出るほど説教された覚えもあります。なぜなら、疑わしい人はすぐ捕まられたので・・・さいわいに警備隊のお兄さんは笑って、指でパンパンしていました。個人的な印象は怖くはなかったけれども、両親は怖がっていました。
「住んでいる町から出るのにパスポートが必要、気が狂わない?」とママが飛び地のベルリンに住んでいる叔母に聞いたことも覚えています。
それから、祖母が東ドイツの親戚に年に何回か郵パックを送った事も覚えています。その中にはチョコ レート、香水、タイツ、タバコ、ミカン、ココア、色鉛筆、柔軟剤、石鹸、使い捨ての髭剃り等々が入っていました。(下の写真はその例だそうです) 「おばあちゃん、向こうには服ががないの?チョコもないの?かわいそう!」と4歳の私にとってはある程度、クリスマスの前に小遣いから寄付していた「餓死するアフリカのかわいそうな子供たちに」と同じような感覚でした。
それから、ベルリンのあの有名な高台から、「壁の向こう側」、あの「死の地帯」を眺めた覚えもあります。
オリンピックの時に、おじいちゃんが「あのドイツも」応援していたことは解りませんでした。「だったら、同じドイツ語を話しているスイスやオーストリアを応援すれっば良いじゃん。」と言ったら、かなり怒られました。
そして、1989年のあの日に、壁が倒れて、あっという間に、ドイツは統一をしました。
1990年の冬ははじめて、家族でライピチッヒの遠い親戚に行って、全く共通点もない同い年の女の子と遊んでいました。(それは、思春期で、私はとても難しい子だったらでしょう。東西の、異文化の問題ではないと思います)。
私はまだ子供だったため、その変化を素直に受け入れたと思いますが、東ドイツ、すでに社会人になっていた人は大変だったと思います。
22年が経っても、ドイツは完全に一つになったかと聞かれると、まあ、一つになっているところですね。きっと、私の同年代の、東ドイツ生まれ育ちのドイツ人はうっすらだけと、東ドイツの青少年団は覚えているかもしれません。親と先生に信頼して、パレードに参加した人もいるかもしれません。出国許可が下りなかった親のがっかりした顔は覚えているかもしれません。
しかし、50-60年代に生まれ、つまり壁が倒れた時に社会人であった東野方はまだ違いはあるでしょう。東ドイツ生まれの50代の同僚はそう言っていました。彼の世代は30-40年に渡って東ドイツに住んでいました。妥当であると言われた物は大きく揺れて、倒れました。もちろん、共産主義は行動範囲が限定されてはいましたけれども、ある程度守られていたも言えるでしょう。
東ドイツという国、いや、制度は愛してはいなかったとしても、どうにか妥協して暮らしていた人は多かったでしょう。東ドイツというシステムはどう思ったとしても、突然、別の人生を送らないといけなかったです。突然夢にも思ってみなかった事を勉強しないといけなかったです。弁護士からの簡単な手紙、保険からの通知だけは死活にかかわるように重要と感じていました人もいたでしょう。
保険で困る日本人も多いでしょうけれども、想像しにくいけれども、ごく簡単なもので困ったいました:
スーパーで今までジャムは一種類だけあったところで、20種類で選ぶ羽目になっていました。
そこで、手をとって導く人は誰一人もいませんでした。
今まで考えていた将来は何の値打ちもなかった。今までの生き方が間違っていると言われました。私の世代で、東ドイツの友達がはじめて、自分の親の弱さを見ていたと言いました。自分でも真実としていたことはなくなっていました。
移民は意識して、国を出て、外の国へ移動しますけれども、東ドイツの場合は、自分が生まれ育った場所にいて、外の国は訪ねてきました。そのカルチャーショックも相当のものだったと思います。
資本主義の顔は誰一人も知りませんでした、その荷は重過ぎました。
もちろん急な変更があっても、人間は一人欠かさずそれをも喜んで受け入れるわけではありません。急に決めたものだからといって良い事ではありません。
この間、ツィッターで或るフォロワーに「今の日本社会は、90年代初期の東ドイツに似ていると思いませんか。」と聞かれました。
少し考えましたところ、まさにそうだと思いました。今まで安全安全と言われていた原子力発電所は実は安全ではないことが分かりました。当然、定期点検、天下り、原発ジプシー、原子力村を知った人もいたけれども、シーベルト、セシウム、放射能等々という事は詳しかった人はごく僅かだったでしょう。
3.11後に、突然、それらのことは毎日の程に直面しないといけません。野菜は汚染されていないのかと心配して、静岡県以西の野菜しか買わない知り合いは何人かいます。放射能についての本をたくさんかって、毎日新聞を読んでも、知りきれません。原発事故後の事情は、誰一人も知りませんでした、その荷を重過ぎると思っている人も少なくありません。
もっと知りたい人は是非オーストラリア人が書く東ドイツの過去を参照:「監視国家―東ドイツ秘密警察-シュタージ-に引き裂かれた絆-アナ-ファンダー」(原題:「Stasiland: Stories from Behind the Berlin Wall」)是非!
ちなみに、今晩時間のある方は、是非、ドイツ文化センターへ!
ドイツと日本。。。ぽい!
あるいは:お米とジャガイモはどこから来るのか?
文化交流会
2011年11月9日(水)19:00
東京ドイツ文化センター図書館
参加無料
問い合わせ:03-3584-3203
[email protected]
お腹へってますか?さびしいですか? この催しはその解決策ではないでしょうか。二週間おきに行われる文化交流会。ドイツのブレーツェルや焼き菓子、日本のおにぎりなどを囲んで面白い文化の違いなどについて意見を交換します。ご参加お待ちしています!
今回のトピックはスポーツです!!
Wow, das ist interessant... 興味深い。
北朝鮮と韓国も何時かはこの運命を直面しないといけないのかなぁ。。。
日本でも占領下の時期に「日本の分割統治計画」が一時的に提案されてたようだ。今考えると、恐ろしい事だ。。。国は強制に分裂してはいけないと、つくづく思うなぁ。。。
今でも戦争・紛争や原発問題が起こっている。。。とても平和とは未だ言えない世界だ。
投稿情報: asdf | 2011/11/09 13:41
当時29歳だった私は、「喜びに沸くニュース」を他国の事ながら複雑な想いで眺めていました。
私が生まれてから起きた、似てる事象、ベトナム、沖縄、韓国に戻った在日の方の話などから、とても手放しには喜べませんでした。ドイツの場合、実際には長い準備の上で統一されたのでベトナムとは違うと「知って」いながら、「壁崩壊」の絵面を見てると、その熱狂に何故か不安を覚えたのでした。
投稿情報: molinobannin | 2011/11/10 22:39