何人かの友達に、自分と原子力、再生可能エネルギーの事を書いてもらうように頼みました。それらの文章を日本語に訳して、ここで発表します。緑色の文章は私の注釈です
K、29歳、NRW州生まれ育ち
「Baby an Bord」(この車は赤ちゃんが乗ってますよ。)シールと、シルト島シールの隣に、ドイツの車に貼ってある「Atomkraft? Nein danke.」(原子力おことわり)」という真ん中に丸い、黄色い笑顔が載っているシールはもう80年代から知っています。もっと正確に言うと、チェルノブイリの原子力発電所に事故が起こった1986年から知っています。私は当時4歳であって、その事故の深刻さ、それからウクライナ人にどんな影響を与えたの かは理解できませんでした。原発の半径30km以内の住人に長期避難指示が出され、彼らは被曝された時に、私は子供心ながら、外で遊べなかったことが一番大きな心配事でした。事故で発生した放射能雲の雨は数日後、ベラルス、北欧、ドイツに降っていました。除染された土壌が怖くて、母は砂遊びを禁止しました。鋤、熊手、バケツ、型押し、スコップはしばらく棚の奥に入りました。(ドイツの多くの庭にそういった砂遊びの箱が置いてあります。)キノコ、新鮮な野菜とじゃが芋も昼ご飯の食卓にあがりませんでした。(ドイツは普段お昼だけ温かい食事を頂きます。)子供の私の好物は白身魚のフライ、インスタントポテトピュレと缶詰のグリーンピースと人参でしたので、食品選択では困りませんでした。子供の意識からははやくもチェルノブイリがなくなりました。
チェルノブイリとの個人的な体験
歳月が経って、私は普通にテレビ、ステレオとゲームを使っても、コンセントの電力はどこで作られていることは全く考えてませんでした。電力は当然そこにあることでした。石炭の火力発電所であれ、原子力発電所であれ、私には知りませんでした。大人が話していた電力会社との契約を理解するためにはまだ若すぎました。電力、それからチェルノブイリの事故を思い出したのは、90年代前半でした。ベラルス人の7歳の女の子が6週間うちにホームステーをしていた時でした。その当時にドイツ・ベラルスの団体は毎年チェルノブイリ事故後に病気になっていた子供の養生のため、」子供たちをドイツでホームステイさせていました。除染されていない環境では子供の免疫系は強くなるという目的でした。私は妹が出来たように、遊び相手を楽しみにしていましたが、言語と文化の違いは大きすぎて、両親とも皆が大変でした。西ヨーロッパに育てられ、自分の大きな部屋で数えきれないおもちゃを持っていた、女の子の私は彼女の目にはおそらくエンドウ豆の上に寝たお姫様のように見えたでしょう。彼女は裕福と呼べない家族に生まれて、その上に親が離婚して、原発事故の健康への影響の悩みと言う生活を送っていました。
どんなに異文化等々と言う問題があっても、ドイツでの滞在はあの子にはよかったと思います。汚染された物に障らないように、汚染された物を食べないような心配は、一時的でもなかったことで、少し元気になれたと思います。
嵐の前の静けさ
その後は、原発と言うテーマは自分の生活にあまり出ませんでした。まずは高校卒業試験、職業訓練と大学での勉強で忙しくて、原子力はあまり考えませんでした。メディアでもあまり取り上げられませんでした。その間はドイツの原子力発電所は懸命に電力を作ってくれました。原子力がそれぞれの内閣に支援されながら。もちろん「緑の党」は反対していましたけれども、その反対もまた聞こえなくなってきました。原子力は安いし、それより大きな問題があるから、なぜ電力について考えるのか?と多くのドイツ人は思っていたでしょう。多くの人は失業手当と児童手当という福祉のテーマの方に関心を思っていました。政府は2010・2011年にさえ、原発の稼働延期を決めました。
フクシマ後に世界に激震が走る
しかし、そこで2011年3月11日が起こりました: フクシマの大惨事。次から次へとメディアでは新しいニュースが出ました。地震と津波の悲惨な映像をみたばかりで、相次いでの、フクシマでの爆発を観ました。「メルトダウン」、「最大想定事故」(Super-GAU)という単語を頭の中に、戦慄する光景を目の前に、心配しながら毎日ニュースを観ました。夜には毎晩特集ニュースがあって、いわゆる専門家は事故がドイツに及ぼすリスクをはかっていました。「日本は遠すぎて、放射能の影響がありません。」から、「放射能雲が出来ましたら、米国経由にここに届くことはあります。すでにミュンヘンでは高い放射能が測定されましたよ。」まで意見は様々でした。気持ちのジェットコースターでした。テレビで日本人はどれだけ落ち着いていることを見ていたら、ドイツのメディアも大いに誇張し、ドイツ側が意図的なパニックづくり、煽動でもあったことがわかりました。今になって、私が正しかったことがわかりました。公式な定義の「最大想定事故」(Super-GAU)にはなりませんでした。もちろん多くの日本人の生活の最大想定事故が起こりましたけど。大勢、大変に大勢の日本人はこの災害で亡くなって、家をなくなった人が大勢います。
エネルギー転換
日本はドイツから数千キロ離れていても、フクシマは決定的な重要性を持っている出来事でした。ドイツは日本人の運命に深く感激し、それがこちらの考え方を改めるきっかけとなりました。ドイツ政府はこれから何年で原子力発電所を中止させ、火力発電所と再生可能エネルギー発電所に取り換えています。チェルノブイリとフクシマが起こるまでこうなったのはたいへん煩わしいですが、「遅くても何もしないよりはまし」と言いますよね。もちろん、エネルギー転換を興すのは今ドイツだけであって、それもまた焼け石に一滴の水だけです。しかし、「点滴岩を穿つ」でも言いますよね。ドイツの一滴はようやく日本、それから日本、アメリカとその他の諸外国での考え方を変えるきっかけとなるかもしれません。共通の目的、共通の技術工学的専門知識は再生可能エネルギーの多くの物は解決され、人類の電力供給も安定している将来を保証する事が出来ます。
Kさんの好きなビールは地元のKölschです。
日本と発泡酒とノーライフ
29歳のKさん、そしてドイツの国にとって今も終息することのないはるか遠くの日本の原発事故が、暮らし方やエネルギー政策の転換をもたらしました。
一方産業福祉狂国日本は、原発を1つも動かさずとも電力が足りることをひたすら国民に隠し、またもや競争に敗れた産業の吹き溜まりである原子力ムラを護っています。ギリシャを上回る財政赤字をさらに積み上げながら。
東北大震災・福島原発事故後、わたしは全国あまたのお役人様たちに、「サムライ」になっていただきたいと願っています。自分の決断や行動に責任を持って日々の業務を行い、間違った時は潔くそれを認め、正しい道を探る。
しかし、相変わらず・・・。何年か経ってドイツで日本の歴史を学ぶ人がいたら、テキストには今のお役人様は「平成貴族」と記述されているのではないでしょうか。
重い税金をぼやきながら、発泡酒を流し込む日本の男たち。戦え、男たちよ!居酒屋から革命の狼煙をあげよ。そして勝利の美酒に酔いしれようではないか。
今回のコメントはロシア文学風にまとめてみました(^-^)
投稿情報: asariya38 | 2012/01/17 16:19