私の高校は特別なシステムがあって、ヨーロッパの様々な国の留学生を一時的に受け入れました。
スペイン、オランダ、フランス語圏、ポーランド出身やロシア出身の留学生が集まって、ドイツ語の勉強をしました。
ドイツ語を外国として勉強しただけではなく、フランス語、英語やスペイン語を勉強して、話せた留学生もたくさんいました。
ただ、そこでは、相手は自分の母国語が話せるだからといって、すぐにその言語にスイッチした事はなかったです。つまり、ポーランド人はフランス語が出来ただからといって、ベルギー人とフランス語で話したわけではありません。つまり、
「共通外国語があれば、それを使うべき」
というポリシーでした。
私もフランスに留学したときに、オーストラリア人の友達のマギーちゃんとは英語ではなく、フランス語で話したのです。
しかし日本に来て、その考え方がかわりました。
14年前に、はじめて日本に来た時に、私が乗っていた車が小さな村の交差点で止まると、
その車をみる、小さい女の子が私のことを発見して、
「ああ!英語の人!」
と叫び出した。14年前でしたが、それぐらいの日本語はもうわかって、大変びっくりしました。私は英語の人に見えるのか。もちろん小さな子だから仕方ありません。
しかし、貴方はドイツの町を通って、5歳の子供に指差されて、
「お母さん、見て、中国語の人だ!」
と呼ばれたら、がっかりするでしょう。
こういう内容をつぶやいたら、「事実上に中国人口の方は大きいから、仕方ない。」という消極的な返事をもらいました。どんな人であって、自分の国にプライドを持っているでしょうから、隣の国の人と思われていることは寂しいでしょう。
しかし、日本に住んでいる外国人、特に白人男性をみると、まったく勉強する気がない人はかなりいます。
(当然とても上手に日本語が話せる人もいます。)
彼らは、2年だけ日本にいて、それから帰国することなら日本語を勉強する気にならないのはまだわかりますが、その多くは、奥様が日本人で、子供も日本の学校に行っていて、滞在歴は10年以上であったりします。そこでも毎日どうにか、英語で通そうとしています。
日本に来て、私のポリシーは、「共通外国語があれば、それを使うべき」よりは「ホスト国の言葉で話すべき」に代わりました。
「郷に入っては郷に従え」とは、習慣を守るだけではなく、言葉を守る事も当然だと思います。
岩倉使節団の団員も一生懸命外国語を覚え、明治・大正時代に来日した方(小泉八雲、快楽亭ブラック等々)もしっかり日本語の勉強をしていました。
ドイツやデンマークではすでに、外国人用の国語コースと試験があって、それを合格しないといけないと滞在できない場合もあります。
それはもちろん極端なことであるけれども、多文化社会を作るために必要不可欠です。
それでも、私は「ハロー」と挨拶され、レストランで英語のメニューを出される事は、まあ、観光客と思われるからでしょう。
ドイツでは、(日本人の)友達はこういった経験をしています。
田舎の郵便局に並んで、自分の番になった。
「はあい、なんでしょうか。」と聞かれ、
片言のドイツ語で、
「切手を下さい。日本への手紙。この手紙。」
と言いました。
そうすると、ドイツ人のおばさんがムッと、
「切手を買う前は、まずドイツ語の勉強をしなさい!」
と叱ったのです。
ひどいでしょう?しかし、よくある話です。
多様文化が共生する事で、まず言葉が大事だと思いますので、日本人も英語を話したがるのではなく、国内では日本語を話した方が良いと思います。
しかし、日本人は英語が下手だとか。先日知り合いのおじいさん、
もちろん、国際化の時代では確かに英語は必要です。
正直、教える側(中高の教員)も話せないと、教わる方(中学生・高校生)もお話せるようになれないと思います: ドイツではそうではないけれども、イギリスの大学で外国語の勉強する人は一年留学しないといけません。
フランス語、デンマーク語と二ヶ国語を勉強していた友達は半年パリ、半年コーペンハーゲンに留学していました。
ヨーロッパだから留学はとても安いと思われがちですが、私もイギリスに留学したときに、年間8000ポンド(当時125万円)の学費、プラス、月々25万円の生活費・・・で半端じゃなかったです。
それから島国だから遠くて、なかなか出来ないという声も聞こえますが、今の時代は6万円の航空券がありますので、東京・博多の往復と同じぐらいの値段になりますよね。
今は中学校での英語の授業では日本語は話してはいけませんから、先生方も大変。
教師になるぐらいでは留学しないといけないと思います。
「日本で英語で通そうとしている英語話者」、まさにそういう外国人何人か知っております。(私は外国人に日本語を教えています)特に東京など都会に住んでいると、別に日本語ができなくてもそれほど不自由しないのかもしれませんね。外国人専用のマンションに住み、仕事でも英語を使い、という人達です。日本にそのままアメリカを持ってきて住んでいます。「英語で話したほうが日本ではお客さん扱いされて親切にされる」と言う人もいました。でも少しは日本語も勉強してほしいな、と日本人として悲しかったです。
投稿情報: hiro | 2012/04/07 10:22
「しかし、日本に住んでいる外国人、特に白人男性をみると、まったく勉強する気がない人はかなりいます。」これを500年続けた結果が、日本の片田舎の少女がクララさんを観るや否や、「英語の人」と指さすあたり、今に生きているような気がします。
わたしも英国紳士に倣って、どこへ行ってもできる限り日本語で通すようにしています。戦中戦後生まれの方たちは、原子爆弾を広島と長崎に二つも落とされた敗北感と恐怖心、そして劣等感から欧米人にこびへつらう傾向が強いと思います。ガムやチョコレートを「Give me~」で、進駐軍からもらった人たちは特に(^_^;)
言葉の問題も、わたしはある意味戦いだと考えています。日本と中国との間にもそうしたせめぎ合いがありました。漢文をやまとことばに馴らして読むとか、ひらがなカタカナを発明したり、先達は中国とは良い付き合い方をしてきたとわたしは思っています。
「外国語の教師になるには留学したほうが良い」という助言に対しては、「望ましいこと」だと思いますが、そもそも留学するような自由闊達な人たちは、窮屈な学校社会には興味を示さないようです。
このブログを読むにつけ、つくづく東京は田舎者の寄せ集めの街だと感じてしまいます。同じ教室に外国籍の子供が2割から3割いる、わたしの暮らす町では、クララさんが少女時代に体験したような世界を観ることができます。東京に居たのでは、本当の日本には出会えないのではないでしょうか?
投稿情報: asariya38 | 2012/04/07 14:26
英語母語話者男性と結婚した日本人の妻の方が、英語で話したがる(日本語を使いたがらない)という事情もあるような気がします。
投稿情報: eg | 2012/04/07 18:18
日本の技術教育のために英語を使ってはいけません。技術者に英語の負担を大きくすれば、技術の面で世界からどんどん遅れてしまうからです。
そんな事はないと思う人がいると思いますが、日本人は、中国人と比べても、朝鮮人と比べても、英語力はぼろ負け、ならこの先は言わなくても技術競争を英語でしてはならに事は自明でしょう。現に、電脳プログラム部門では、日本は、周回遅れかと思うほど中国に負けています。
国際交流に英語が必要なことは勿論です。
私は、欧州の多くの人と英語で話しましたが、たいていの人は英語が話せました。
投稿情報: 出野行男 | 2012/04/07 18:50
とりわけ英語圏出身の人は、どこへ行っても英語で押し通そうとする人が多いですね。旅行者(お客様)であれば、問題ないかと思いますが、そこに住むとなると話は別です。クララさんのおっしゃるとおりかと思います。
ところで、私はベルリンの美術館でチケットを買った時、窓口の女性に中国語の館内案内を渡されたことがあります。もちろん、彼女にとっては親切のつもりだったのだと思いますが、私は「私は日本人であり、中国人ではない。どこの出身かわからなければ、きいてください」と言いました。もちろんドイツですから、ドイツ語で。ちゃんと日本語の館内案内はありました。
投稿情報: すぎまるこ | 2012/04/07 19:54
言いたいことは解りますが、正直そんな何か国語も覚えられませんよ。
そもそも人やその人の母国語によっては外国語の習得はそんなに簡単じゃないんですよ。ドイツ人にとってフランス語や英語は数年で習得出来るかもしれませんが、中国語やアラビヤ語はそうもいかないでしょう?
Clara Kreftさん、日本語ものすごく頑張って勉強されていると思いますし、感服しますが、
>>教師になるぐらいでは留学しないといけないと思います。
厳密に言うとあなたのこの日本語も間違っていますよ。
「なるぐらい」は一般には比較否定文、否定文で使われます。
「教師になるぐらいなら、いっそ保育士になりたい。」
とか
「ちょっと踊れるようになるぐらいでは十分じゃない。」
英語に直すと解りやすいかもしれませんね:
>>教師になるぐらいでは留学しないといけないと思います。
to become an enough teacher, to go to foreign school is necessary.
意味は解りますが、間違っているでしょう?
>>「英語を教えるぐらいになるには、英語圏の大学を卒業するくらいは必要だと思います」
I would consider to be enough to teach English, graduating a university in an English speaking country is necessary.
私を含めて大抵の人間は正しい日本語なんて使えないし、使わないんで誰もきにしませんけどね。
それから外国の大学に留学しても必ずしもそんなには出来るようになって帰ってこないみたいですよ。高校の英語の先生がちょっと留学して頑張れば英語が出来るようになるなんてあり得ません。
投稿情報: passerby | 2012/04/07 21:46
p.s
なるぐらい+動詞
「変になるぐらい好き」
なるぐらい+の事
「教師になるぐらい(の事)誰でも出来る」
もあるみたいですね。
なるぐらい+では
理論的には一般的な用法から切りはずして:
「何事も極めて達人になるぐらい(の技術の習熟度)では、神秘がかってくる。」
「空の高くまで昇って、ジェットエンジンが使えなくなるぐらい(の高さ)では、空も青くは見えない」
のように「では」をatのような形で、「ぐらい」をapproximation或いは程度を表すのに使うこともできますが、こういう表現は小説なんか以外ではあまり見かけません。
通常は否定的な意味で使われると・・・思います。例外がないとは言えませんけどね。
少々言葉が足りなかったように思えましたので、付け加えさせて頂きました。
ただ、こんな細かいところまで突き詰めたら大変ですから、まあ、適当でいいんですけどね。 私も私の周りの人も日本語崩れに崩れてますから。
投稿情報: passerby | 2012/04/07 22:56
そういう白人男はくそだと思う。
日本語勉強せえや!人間のくず!
投稿情報: take | 2012/04/08 00:38
私も通りがかりですが...
Clara Kreftさん、とても興味深く拝読させていただきました。
Vielen Dank für Ihnen Text, das für mich sehr anregend und interessant ist, und auch für Ihnen Interesse (und unermüdlichen Bemühungen) an unserer Kultur !
> 言いたいことは解りますが、正直そんな何か国語も覚えられませんよ
これはわかるような。
現実的に、このことは意外と忘れられがちな気もします。
ただ、「外国語」は英語ひとつだけやっていれば十分、というような世の風潮を感じて、違和感をおぼえることがよくあります。
日本人でも英語の堪能な方はたくさんいますし、それはとてもよいことだと思うのですが、そうした方々のなかに、英語圏以外の地名や人名などを英語読みで覚えていて、ともするとそちらの読み方の方が正しいような物言いをする方などもお見受けしたり。
英語文化が正義、というなような使われ方をされているような。
少し前にインターネットサーフィンをしていて、フランス語圏とオランダ語圏のある国ベルギーに駐在されている方の奥様がお書きになっているブログの記事を拝読したことがあります。
確か、その方はフランス語話者で、ご家族が両語圏の境目近くにお勤めだったかでオランダ語圏の公園に遊びに行ったとき「オランダ語(正確にはフランデレン語)が話せない子供おことわり」という看板を見てひどく悲しい思いをした、そんなことで子供が遊べなくなるなんて、なんてかわいそうなことだろう、といった論調でお書きになっていたと思います。
でも自分はそれでいいと思いました。
全世界で見れば、確かにオランダ語よりもフランス語を話す人の方が多いと思います。でもそれは、オランダ語で培われてきた文化がフランス語文化に圧殺されてよいという理由にはならないと思います。
昔、ベルギーはフランス語話者の方が優勢だったため、第一次大戦中はオランダ語圏出身のベルギー軍兵士が、国を守るために従軍したのは同じはずなのに、軍隊の公用語がフランス語だけだったせいで(つまり、軍隊ではどんなささいな、あるいは緊急なことでも、決して母語で話せなかった)ひどく苦しい思いをした...という話を読んだことがあります。
すみません、少し長くなりました。
私は、Claraさんが日本語をここまで使いこなすまで勉強してくださっていることを、日本語話者としてとても嬉しく感じました(上の投稿者の方も同じ思いでいらっしゃるのでは)。そして細かいところをなあなあにせず、きっちりご指摘されている方も、Claraさん含め同じ日本語話者として、やはりありがたいことだと思います(まさに上のコメントの最終行におありのとおりで、自分も、ともすればいい加減な言葉づかいをするものですから。もちろん、それでよいというものでは(ホントは)ないわけでして...)。
ただ、人間に許された時間には限りがありますし、語学の習得ということが労力も時間もいる作業なのは、あらがいがたい事実だと思います。
だからひとまずは
・日本語でのものの考え方、
・英語以外でのものの考え方、そして
・「そのどちらでもない考え方」
も世界にはいろいろあるのだ...ということを、できるだけ忘れないようにする。
それだけでも、だいぶ違ってくるんじゃないでしょうか。
投稿情報: 或語学愛好家 | 2012/04/08 00:47
言葉は、日本だけでなく世界中影響し合って今に至っているという考えで、ふとした折にその由来などが気になる時があります。だから何か日本語も含めさまざまな国、地域のことば使いなどから改めて見識を広げたり、深めたりなど生活を豊かにしようと心がけています。また、この時代のワールドワイドな情報を自分で得るためには言語力は大切だとも思う次第です。さて、私は、先日チラッとClaraさんにお会いしたものです。以下は、そこでみたイベントの感想です。つたないフランス語そして、アクサン記号を打てなくて判りにくいと思いますが、これをそえてお便りしました。(まだ、ドイツ語であらわすには至りません。ごめんなさい。)
L'art contemporain du 1er avril
L'art contemporain est tres varie. On peut voir des tableaux diversements peints et des objets en matieres varies. C'est grace aux marchands de tableaux qu'on peut
les rencontrer.
Or, l'autre jour, il y avait lieu "ART FAIR TOKYO 2012". 130galeries de Tokyo, Kyoto, Nagoya et des autres villes japonaises, et des villes d'Asie ainsi que d'Europe
associees y on participe.
Le premier avril, je me suis rendue au lieu de l'exposition dans le "FOURAM INTERNATIONAL" a Yurakucyo. Il y avait beaucoup d'amateurs d'art, sourtout collectionneurs. Et ils etaient diriges dans les cabines des marchands non pas par les tableaux cilencieux mais par les marchans faisants des manieres.
C'etait la scene convenable pour le jour de poisson d'avril. Quanta a moi, j'ai eu l' impression de voir une sorte de l'art contemporain sur la scene tandis qu'il n'y a eu guere de nouveau dans les presentation.
投稿情報: Tomo | 2012/04/08 09:05
クララさん Twitterでフォローしていただいた者です。クララさんの過去のブログを読んで色々と共感できるものがありました。一つ一つコメントを書くと時間がかかりますし、直近の物が分かりやすと思い、コメントします。
白人と表面だけで、区別するのは私は好きではありません。また、英語を話すからと言って、全てニューヨークから来た米人と判断するのも好きではありません。
たまたま、ドイツ語のような定冠詞の格変化もなく、フランス語のように発音しないのに文字が並ぶことがなく、比較的世界共通語的に使えるようになったのが、英語のような気がします。
でも元々英語は、UKの中のイングランドの言葉です。たまたま帝国主義時代に獲得した植民地の数が多かったし、植民地の一つの米国が巨大化して英語というよりは、米語が支配的になっているのだと思います。別にそれはいけないというつもりはありません。
たまたま、結果的に多数の国で話されているという状態だと思います。
このブログで白人=英語話せる人というのはちょっと私には受け入れられません。
学生のときにフランス、イタリア、オーストリア、西ドイツと宿を決めずに21日間バックパッカーをしまいた。その時のポリシーが、「現地に行ったら、例え片言でも良いからと現地語を話そう」と「現地の食べ物。現地の人が美味しいものと言って食べているものを食べる」でした。
学生の時におぼろげながら、ドイツやフランスへ行って、例え観光客でも現地の言葉で話す方が良いと思ったのです。
極端なことを言えば、中国の田舎に行って、現地の人に対して「ハロー、エクスキューズ ミー」というのは、言葉は謝っているけど、全然失礼なことをしているなと思ったのです。
私の語学力は低いですが、ウィーンへ行って店に入ったとき、「グリュース ゴット」と言うだけで場が和み、店の人が顧客として丁寧に扱ってくださいました。私が下手なドイツ語を話し続けようとするとその時の人は、「英語話せるの?無理して、難しいドイツ語話さなくても良いよ」って言ってくださったのです。
前に「コミュニケーションに使う言葉のベースは文法ではなく、心が大切だ」とTwitterでつぶやきました。なんか、全世界的に利益を追求しすぎて、相手を尊重するとかホスピタリティがだんだん欠如していっているように感じます。
でも、人間の行動ですから、また揺り戻しがあるかもしれませんね。
なんか、初めてなのに長文失礼しました。もし、かまわなければ、メール等でクララさんのご意見を伺えれば嬉しいです。
私は、東京に住んでいるので、お目にかかれたら、とても光栄です。
ありがとうございます。
Danke!
投稿情報: sho392 | 2012/04/10 09:11