この記事は2013年9月3日に「Kultur des Wegsehens」という原題でドイツのtazに載っていました。面白いと思って訳しました。
見ぬふりの文化
日本政府は東電自身は起こした原発大事故を東電に片付けさせた時間は長すぎた。もみ消し政策は大災害をもたらす事はこの大失敗をみてわかる
結果を待ちながら、様子を見るしかない。フクシマから南方40キロにいる漁師には選択肢がない。日本政府には選択肢がある。
爆発した日本のフクシマ原発を制御し、停止する事は簡単だとけっして言えない。非常な力を要する困難な仕事である。その仕事を片付けるためには巨大な資金が必要だけではなく、全世界の専門知識も必要である。
猫に鰹節の番をさせるように、日本政府はその仕事を民間の原子力発電所運営業者の東京電力に任せたことはそれだけいっそう信じられない。日本政府は原発の大事故後の処理管理は巻き込まれないようにしていた。
12月に出来た保守派の政府は原子力撤廃することに興味がないといつもきっぱりと言っていた。自由民主党は何十年に渡って原発業界と親密な関係を持っている。自由民主党の右派の政治家はそれに関連している核兵器のオプションも魅力的に思っている。
東電の政治的圧力を減らした事で、日本政府はそのいい加減な仕事、もみ消し、それから「詳しく知らなくていいから」状態を続けさせた。ちょうどその態度は大惨事をもたらした。
突然の介入
そこで、日本政府は突然介入して、危機管理を担当している。2020年夏のオリンピック開催地の決定までは数日しか残ってなく、その決定では東京の申請だけではなく、日本の国としての声望も判断される。
二年半に渡って、東電はのろのろと仕事をしてきた。その原発コンツェルンは放射能で汚染された冷却水を漏洩なく保存することが出来ないだけではなく、放射線暴露を正確に測れない事も日本政府は不思議がらせながら確認した。使用された測定器の測定幅は不十分であって、線量は思ったよりも高いこと。
残念ながら、日本では政府だけが「詳しく知らなくいいから」態度とっているだけではない。国民もも主流メディアも政府も東電の仕事ぶりを監視する事はしなかっ
た。世間の圧力の結末原発事故の後でも原発に批判的なスタンスを持っている人はほとんど議会やその他の機関に加わっていない。
多様性が欠けている事で、日本の民主主義が今でも不十分である事がわかる。民主主義を強化し、つまりより透明な政治がなければ、次の大問題はもみ消される事までは時間の問題にすぎない。